【国産ジェット機“技術力”だけでない撤退の裏側】

【国産ジェット機“技術力”だけでない撤退の裏側】

 2月7日に発表された国産ジェット機、三菱のスペースジェットの開発中止について取り上げる。YS – 11 以来となる国産ジェット機の開発がなぜ上手くいかなかったのか?半世紀ぶりスペースジェットの全身であるMR – J の名前の方が知っている方が多いのではないでしょうか。このMR – J 事業化を決定したのが、2008年三菱重工が今から15年前である。

MR – Jの開発にあった背景には、“三菱重工の野望”があった。もともと三菱重工は、MU – 300 という小型のジェット機を開発していて1978年に初飛行、ホンダが手掛ける「ホンダジェット」のようなプライベートジェット機として使われる機体であった。MU – 300は、開発は成功したものの、販売や保守サービスの構築が難航し、事業継続が難しいという判断から同業他社へ事業の売却を行った。そのため三菱重工の航空機事業は、米国のボーイング社の下請け企業として一部の航空機部品を手掛けることになった。

航空機部品の製造で自信を深める中、ボーイングの下請けで甘んじたくないという想いがあった。そのためスペースジェットの事業化を決めたときの記者会見では、三菱重工の幹部は「航空機生産は長年の悲願」と2008年3月三菱重工の佃和夫氏(当時社長)が発言している。この三菱重工の判断を国も後押し、航空機の部品点数は、100万点と言われていて自動車のおおよそ3万点と比べると航空機産業は裾野が広い産業と言われている。

自動車メーカーが海外で活路を見出し、現地での部品調達を増す中で、航空機関連産業は、国内に新たな仕事を生み出す産業として期待された。大きな期待を持って開発がスタートしたが、なぜ上手くいかなかったのか?それを確認する上でまず、開発スケジュールについて確認する。開発を始めた2008年の時点では、2013年後半に初号機納入予定であった。しかし、2009年に1度目の納入延期を発表した。その後も納入延期が相次ぎ、最終的には6度の納入延期、初号機納入の2013年後半予定が2021年以降に後ろ倒しになった。

納入延期となった理由を見てみると、設計変更、製造工程の見直し、主翼の強度不足など機体の開発が上手く行かなかったことからも分かりる。この背景には、“革新的な航空機”にこだわり過ぎた点にある。半世紀ぶりに開発する国産旅客機、当初は他社が採用している信頼性のある部品を使って低コストの航空機を目指していた。しかし、開発の方針は大きく変わった。半世紀ぶりの開発をするならば、革新的な技術を採用したものにしたいという“ものづくり立国”ならではのこだわりが出てきたためである。そのため、当時は採用実績の少なかったエンジンを採用し、炭素繊維を使った部品を多用することで革新的な航空機とすることにこだわった。そうした結果、部品の開発に審査時間がかかり設計の変更や製造工程の見直しといった納期延期につながる事象が発生した。

2つ目は「開発体制」である。スペースジェットの開発が上手く行かなかった要因についてはボーイングの航空機部品を手がけていたチームは、部品製造の経験はあっても航空機そのものを造った経験がなかった。航空機の開発は機体そのものを造るだけでなく、中に組み込む配線の設計など非常に複雑な作業が必要になった。

三菱重工は戦闘機では機体の製造をした経験はあったが、しかし戦闘機と民間機のジェット旅客機では、安全性に関する審査の厳しさが大きく異なっていた。三菱重工は途中から競合他社から旅客機の機体開発の経験を持つ外国人を開発責任者にするも上手く行かず開発が進まなかった。こうした航空機開発の難しさを理解している開発人員が不足していたことが大きく影響したと、複数の関係者が指摘している。

3つ目は、商業運行させるために必要な型式証明「TC」の取得である。TCの審査は、国土交通省(以下、国交省)が担当するが、日本では民間機を開発するのは半世紀ぶりで、三菱重工や国土交通省にも審査するためのノウハウがなかった。さらにスペースシェットの開発が難航していたために審査ではやり直す項目があったために時間がかかった。国交省はアメリカ連邦航空局と連携して審査体制を整えてきたが、審査は難航し時間がかかってしまった。三菱重工の関係者は、「TCの取得がこんなに難しいとは思っていなかった」と話している。こうした要因が重なり、6度の納入延期に至った。開発費用は当初は約1,500億円と想定、開発期間が延びたことで、およそ1兆円を投じたと報じられている。

こうした技術的な要素に加えて、開発撤退の背景には、三菱重工社内の事情や国の政策的な事情もあったようだ。なぜこれだけ開発が難航するなか、開発をあきらめなかったのか?三菱重工の社外取締役は早くから「開発から撤退すべき」と指摘していた。開発費用が1兆円に膨らみ三菱重工の経営を圧迫、開発を継続するには経営リスクが大きいと判断した。それを許さなかったのは「三菱重工の文化」である。三菱重工のある経営幹部は「三菱には撤退の文化はない」と話している。

こうした言葉を象徴する出来事が過去に累計で2,540億円の特別損失を出した大型客船事業である。この事例も撤退ではなく“受注凍結”という状態となった。補助金などを出資している国も撤退を止めた。撤退となると支援してきた500億円の税金が無駄になる。こうした国の雰囲気を航空会社も感じ取っていた。

スペースジェットの購入を決めていたANA HDやJALは、いつまでも納入されないことで、航空機の納入で影響が出ていたが、購入をキャンセルするとは言えなかった事情がある。

ある航空会社の幹部は「われわれからキャンセルすると言えば国に喧嘩を売ることになる」「のど元まで言葉はでているが口が裂けても言えない」こうした理由で開発が上手く行かなくなっても撤退することができなかった。ではなぜ2020年の立ち止まるの発表、そして今回の撤退に至ったのか?その要因となっている1つが新型コロナウイルス、2020年春に感染が拡大し世界各地でロックダウン、都市封鎖が起きスペースジェットの顧客である航空会社は厳しい経営環境に置かれた。

スペースジェットは1兆円の費用を回収するために受注を増やさなければならない状態であったが、顧客である航空会社の経営が苦しくなり受注拡大は難しくなった。さらにコロナ禍で三菱重工そのものも苦しい状態となった。三菱重工の2022年4 – 6月期最終損益579億円の赤字となり、四半期としては過去最大となった。こうした経営環境もあり、三菱重工社内においてもコロナ禍のせいにできるとして2020年10月に立ち止まるという表現で事実上の開発凍結を発表した。

ちなみにここで立ち止まるという表現にしたのは、経済産業省から撤退という表現はやめてほしいという要望があったことが背景にある。その後三菱重工は、事業を継続する方法を模索していたが断念した。開発に時間がかかる上、脱炭素の対応で機体の設計見直しやTC取得で追加費用が発生する。継続するには、1,000億円前後の費用が数年かかると明かしていた。撤退という悲しい最後を迎えたスペースジェット、この一大プロジェクトは三菱重工の経営に大きな影響を与える結果となった。

1つ目は「開発資金の捻出」である。三菱重工の資金調達として保有していた不動産を売却して資金を捻出していた。三菱重工社内から「スペースジェットに会社がつぶされる」という声が出ていたと言われている。三菱重工の宮永会長は「この開発資金をほかの事業に使えていれば…」とこぼした。三菱重工の将来展望に大きな影響を与えた。

2つ目は「成長の柱の喪失」である。ある三菱重工の経営幹部は、8年前に「スペースジェットの開発は難航しているがこれが上手くいけば…」「将来三菱重工の経営の柱になる」と話していた。しかし撤退が決まった今、三菱重工の将来を支える新たな屋台骨は決まっていない。

期待できる事業もあります。原発です。ロシアによるウクライナ侵攻をきっかけにエネルギー価格が高騰したことにより、政府は原発の建て替えなどを検討し方針を変更することになった。こうした動きは、三菱重工の新たな収益源として期待されている。ただ政府の方針に左右されやすく、政策次第では需要が再びなくなるリスクもあり会社の存続性を考えると新たな成長の柱を生み出す取り組みが欠かせない。

さらに世界の安全保障の意識の高まりから防衛もある。スペースジェットで培った技術を防衛に活かすとしている。日本政府が防衛予算の大幅増額を打ち出しているタイミングにある。しかし防衛産業は稼ぐのが難しく撤退が相次いだ過去もある。

今回の顛末としての総括として、三菱重工の幹部は次のことを指摘している。
第1に「すべての理由は開発に時間がかかり過ぎた」、第2に「プロジェクトを立ち上げたときは競争力がある航空機だったのに時間がたち競争力はもはや地に落ちたてしまった」 国産ジェット“MR – J”開発断念、三菱重工“失敗”の背景にある複雑な事情が招いた結果である。

以上